一週間バリ島で休んできました。
4年前に初めてインドネシア旅行をした時以来です。
その時はウルワツ寺院やウブドなど時間がある限り行動して観光しましたが、今ではインドネシアに住んでしまっているので、バリ島に行くのも特別な感じがしないため、頑張って観光しようというよりはゆっくり休みたくなるみたいです。
以前この一連のツイートを見たときに、ああなるほどなと思いました。
◆バリ◆ 縁あって誘われて、南国のバリを訪れる。十数年ぶりであるが、僕の身体はバリを覚えていた。なぜかわからないけれども、バリには懐かしい未来がある。なぜ懐かしいのか?なぜそこに未来を感ずるのか?それが今回の旅の目的となった。
— 原島 博 (@hirohrsm) 2014, 8月 28
バリは、島全体が一つの生命体のようだ。その生命体になくてはならない血管系として、稲作のための独特の水利システムがある。それは長い進化の歴史を経て獲得された。その血管系がバリの社会をつくっている。人と人のつながりも生んでいる。バリには自然と人が見事に一体化した営みがある。 — 原島 博 (@hirohrsm) 2014, 8月 28
海辺の観光地は必ずしもそうでなくなったけれども、もともとバリに住む人たちは、職業に関係なく午前中は農作業をする。例えば寺の僧侶も、普通に農作業をして、祭りのときだけ僧侶としての役割を担う。人が生きるためにすべきことを当たり前のようにしている。それがバリだ。
— 原島 博 (@hirohrsm) 2014, 8月 28
バリは人と自然とテクノロジーの境目があいまいなように感じます。
建物の色や形を見ても、まるでそれが、人がバリ島で生活を始める前からそこにあったかのように存在します。ローカルなビーチでは、昼を過ぎると現地の子供やお母さんが普段着のまま海に飛び込んで遊んでいる姿がありました。
そういうところが、エキゾチックで何か心に直接触れてくるようなスピリチュアリティを感じさせるのかと思います。
バリ島では、インドネシアのほか大部分の地域と違い、主にヒンドゥー教が信じられています。といってもそれはバリ土着の信仰と混ざり合った独特の宗教だそうです。
宗教が人の生活をかたち作るのではなく、土地(環境)が人間性を作り、その人間性が宗教になるのかなとジャワ島からバリ島に来て思いました。
日本もそんなもんでしょう。
日本人もインドネシアというとバリ島なら知っているという人も多いので、よく観光に勧めます。
自分の多くない経験の中で比べると、シンガポールやバルセロナやジャカルタは観光地として“まとまっていない”、ローマや東京ディズニーランドやバリ島は観光地として“まとまっている”と思います。
“まとまっている”とは、雰囲気が一様であり、かつそれは(日本人の)日常からある程度の距離があるという意味で使いました。まとまっていないからダメというわけではありません。
僕が思うに、まとまっているならば、主な目的がなくなんとなく観光で行ったとしても、その土地に立ち、雰囲気を感じるだけでも非日常を楽しめます。
つまり、とりあえずバリ島に遊びに来てみましょう!誰が来てもがっかりしないはずです!
写真で締めるのもあれなので、エピローグ。
がやがや系でなくても人が集まる海は、海として格上な感じがします。
海って、人の声がいくつもの周波数から構成されてるように、無数の特徴(価値)の重ね合わせでできてて、どこの国の海に行っても自分のふるさとの海との共通点を見出してノスタルジック欲が満たされるなあなんて思いました。
海に限らず、それが自然が人を惹きつける理由なのかもしれません。