インドネシア人にとって、「時間は伸び縮みするゴム」だそうですね。
インドネシアの大学生、期末テストで時間切れになっても平然と問題解き続けてるだけじゃなく(10分くらい勝手に延長する人が何人も..ほんとに..)、時間通りにテストを終わらせた人も周りのそんな人を全く気にしてない。課題の提出期限もあってないようなものだし。締切のイメージが違いすぎる。
— たーにー バンドン工科大学 (@ltnsss) 2014, 12月 4
そのくせ、全部締め切りとテスト時間を守っている自分に対してdiligentだって言ってくるし、罪悪感はあるのかな。 — たーにー バンドン工科大学 (@ltnsss) 2014, 12月 4
国民性なんていうものは何百年単位のものではなく、何十年くらいのレベルで変わるものだと思っています。
日本は、待ち合わせには時間通りに来るし、どの電車も時間通りに来ることは海外でも知られていますが、日本で精密時計の大量生産が行われるようになったのは20世紀に入ってからだそうなので、一般市民が時計を使うことが普通になったのだってここ何十年のことだと思います。
つまり、それ以前では、世界にはぴったり時間に正確とかそいうい概念はなかったことでしょう。
まあ‘時間’を一日単位で計って、例えば、元日だから祝おうという考えはあったでしょうが、少なくても現在のインドネシアでは祝祭日はその日に祝っているので、そこに差はないようです。当たり前ですが。
日本の電車が正確であるということは、もしも交通手段として電車を使って遅れたならば、遅れた人自身に大きな責任があるということです。
ここインドネシアでは、現在いくつかの大きな都市で渋滞が深刻な問題になっていることや、ほぼ毎日大量の雨が降る雨期では交通手段がすぐにマヒしてしまうことを考えると、遅刻しても、交通手段がよくないんだからしょうがないということになります。
移動というものはあらゆる人に身近なことで、人にとっての時間の意識を決めるには十分な行為だと思います。
いまだに人口も増て続け、車やバイクを買うことのできる層も増えているインドネシアや其の他東南アジアの国で、この渋滞問題は今後も長く問題となり続けるでしょう。
先進国に近づくために海外とのビジネスを活性化されるためには、時間感覚は大きなネックになってしまうかもしれません。
時間に正確かそうでないかというのは、その国の環境や文化から決められているのであって、もとからそこに時間に厳格であったりルーズな人間がいたわけではないのだと思います。
僕は海外の人に、日本人はみな時間をよく守るんだろと言われたら、それはみなが時間を守るからだと言います。海外の人は、日本人はまじめだから時間を守るのだと思っています。実際に、まじめな人ほど時間に関してもきっちりしている傾向はありますが、なぜこれほど多くの人が時間を守るのかというと、ただ単にまじめだからというよりも、誰もが時間通りに来る環境で自分だけ遅れることを避けたいという受け身の気持ちがより当てはまるのではないでしょうか。書くまでもないですが、相互監視的な意味もあります。
将来もしASEANが経済的な世界の中心地になることになったら、時間に縛られない考え方すら世界に広がっていくのかもしれません。